2014年12月1日月曜日

「さよなら絶望先生」 読了してしまった。 →自己同一性とは何か、考えさせられた。

 名作「さよなら絶望先生」 漫画です。自分は週刊雑誌で小さい頃も今も読むものはアスキーだけという変態なので、ジャンプは読んでいませんでした。 なので、連載が2012年ごろに終了した絶望先生も当然単行本単位で読めるので、終わって欲しくない、という思いもあって25集くらい(全30集)で読むのをやめておりました。ですが、最近の日常系、ギャグ系ブーム(マイブーム)の影響で、読まねばならぬと決意、最終巻の30集まで読みました。話数にして全部で301話で完結した絶望先生。まさかこんな結末になろうとは。
 以下、激しいネタバレです。



 風浦可符香。彼女が共同幻想で、レシピエントだった絶望少女達に憑依人格として現れていた、と。確かに、見返してみると多くの考察サイトで述べられていますが、芽留に十字架を向けたときになぜか可符香が包帯をしており(後に明かされるが、このときの可符香は小節あびるであった)、その前後では包帯などしていない。「才能のツインタワー」に登った際も、可符香がいるときには誰か一人カットに入っていない。まといが出てこない回がある、などなど、可符香が別の誰かであったとすれば合点がいくシーンは多々あります。
  
 この可符香の出方は、古橋秀之さんの「ある日、爆弾がおちてきて」所収、「出席番号0番」の猿渡みたいですね。なかなか手に入らなくなってしまった古橋さんの作品の中では珍しく、電撃でちゃんと売ってますので、ぜひぜひ買ってこちらも読んでみて欲しいです。……っていうのは自分が買った時の話になってしまった。リンク貼ろうと思ったらAmazonもTSUTAYAも在庫切れてた……マジかよ。この方の作品ほんと好きなのに、再販した「ある日、爆弾がおちてきて」もこれか……。「冬の巨人」はまだ再販が手に入るようで、あとはGoRA名義の合作である「K」ですかね。でもまぁ合作なんで。「ブライトライツ・ホーリーライト」とか絶対読むべき名作だと思うんだけどなぁ……。
 
 閑話休題。絶望少女達自身も死んだ少女の依代だった、という。芽留の父親もそれをわかっていたようだし。 前述のように301話あるこの話。大きく転換するあびるの眼帯開放が290話。これだけの壮大な重いものを引っ張って伏線張り巡らせて、11話で回収とは、いやはや感服です。にょんたか。

 小森霧。加賀愛。小節あびる。木津千里。関内・マリア・太郎。木村カエレ。日塔奈美。大草麻菜美。大浦加奈子。常月まとい。三珠真夜。音無芽留。丸井円。藤吉晴美。丸内翔子。根津美子。
 なんで列挙してみたと思いますか。実は、大浦さん、大草さん、三珠さんの三人は半モブなので仕方ないとして、あと全員が予測変換で出たんです(Baidu 日本語入力)。こういった固有名詞に比較的強いBaiduといえど、なかなかここまで全員変換し切る作品ってないです。

 個人的には小森さんとかまといちゃんが好みですね。ルックスではなく性格ベースで(ルックスだけだったらほんと誰でもいいレベル)。家庭的で尽くしてくれそうな女性が好みってことなんでしょうねぇ。誰かいませんか。∫ignussは彼女募集中です。

 真面目な作品考察というかこの作品から感じた問題などを語ってみますと。
 高校時代、一種のアイデンティティ・クライシスだったのでしょうか、友人たちと体育の授業中「自分が自分であるといかに証明するか?」というテーマで議論を数週間も続けたことを思い出しました。体育サボってたってのはスルーしてください。もう時効ですよねN先生。
 で、自分が自分であること。外見が「自分」なのか。スピリット的な存在があって、それが「自分」を内面から規定するのか。それとも、そのハイブリッドで定義されるのか。「自分」は「他人」によって規定されるのか。つまり、「他人」という鏡を通さなければ、自分を観察することはできないし、定義もできないのか。
 よく、「新しい自分になる!」といった自己啓発的本が出ています。可符香ちゃんが好きそうですね。ですが、これも「自分」がいくら新しくなったところで、根底にある「確固たる自分を規定する何か」が変わっていないからこそ「自分」としての自己同一性を保てるというものです。

 高校の頃自分たちの中で出した結論は、「一度他人に認可された自分という存在が自分の中にバッファされ、それを更新することは自分でも他人でも可能」というものです。何言ってんだ、と思うでしょうが、結構真剣に考えたものです。この漫画を読み終えた後も、割とこの説は正しいのかな、と思っています。「笑うせぇるすまん」にはよく喪黒に出会って夢を見たあと帰って来たら家族に誰か分かってもらえない、というものがありますが、これは全くあたっていると思っていて、実際世間に「自分が自分だ」と証明する手段など持ち得ないのです。
 自分は写真入りの住基カードを持っていますが(想像つかない方は証明書という目的で言えば運転免許のようなカードだとご想像ください)、これは割と有用な手段だと思います。写真入りで、住所、名前、生年月日のデータがある。それを公的機関が証明する。自治体の存在まで疑いだしたらキリがありませんので、そこまでは認めるとしたら、一番証明に近いですね。ですが、「外部化された自分」にとってはどうでしょう。

 「外部化された自分」とは、「霊魂」が存在すると考えるならばそれ、存在しないと考えるならば、こうやってBaiduやGoogleなどに収集された膨大な入力などのパーソナルデータの集積から導き出せる「人間像」のことです。自己意思を持っている以外はかなり自分そのものに近いものとなっています。作中ではその「霊魂」が絶望少女達の中にあって、それぞれのキャラクターとして生活していたわけです。それでは、「常月まとい」は「常月まとい」なのか?
 もちろん、現実には起こりえないでしょうが(少なくとも確証を得られる例は身近にない)、このように霊魂が乗り移った状態があるとすれば、その人は霊魂である「常月まとい」なのか、それとも元の依代の人間なのか。はたまた、日によっては「風浦可符香」なのか。

 全員偽名で参加するオフ会に出たことがあります。全員大変仲良くなりました。では、私は完全に∫ignussだったのか?ポジティブシンキングで電波な女の子だったとしたら、「風浦可符香」足り得るのか?

 作中、糸色家が影名家であり、時田家が本当の名家であったことが判明します。この時も、時間が経てばもう事実上の名家は糸色家だということで幕引きがかつてあったことが明かされる。

 このように見ると、自己同一性、というものがなんなのか考えさせられる漫画であります。こちらは作者の意図ではないかもしれませんが、よく政治家たちが風刺画的に出てきます。某ネズミーランドにいる小太りしたお兄さんがシルエットで出てくれば我々はジョンナム氏だとわかりますし、「春になると~~」のくだり以降度々出現する機密文書を持ち歩く彼は○破氏です、おそらく。これは、彼らを決定づけるファクターとしてそれらを他人が規定していることを示しています。
 自己同一性として非常に不安定な彼女たちの周りにモブキャラとして出現する政治家や、漫画家など実在のキャラの強い人物たち。この対比が一層物語を深化させている気がしてなりません。

 長々と「さよなら絶望先生」のメッセージ性について考察してみました。もちろん、この漫画の大半を占めるギャグパート、大好きです。というか、まさかこんな結末だと思っていなかったので読んだんです。重い話は割と苦手なので(最初の頃のガンダムとかどっちも悪くないんだよなぁとか考えて頭痛くなる)、きっと300話この話だってわかっていたら、最後まで読んでいなかったでしょう。そういう面でも、自分にマッチした作品だったな、と思います。これから先に名前を出した古橋秀之さんの作品とともに、自分の心の愛読書庫にしまわれることでしょう。折に触れて読みたい思いは聖書以上です(キリスト教徒のみなさんすいません、あくまで自分にとって、です)。

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